From Seattle, WA, USA
by Alex
プロフィール
シアトル在住のAlexです。
ソフトウェアデベロッパーをやっていましたが現在は休憩中。日本にいるときには役者をやってたりしました。歌ったり踊ったり、食べたり飲んだりが大好きです。

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学生時代
 なんでだろう、急に学生時代のことが書きたくなってしまった。昔の友達のことを考えてたからかな。僕の学生時代は、完全に平和とまでは言えないけど、いじめなんかが問題になっている今から考えてみれば、とても穏やかなものだったと思う。

 小学校時代。四年生までは中野坂上にいた。入学直前に越して来たとはいえ、すぐに回りに友達もできて、なかなか平和な四年間だったと思う。親が言うには、僕は小学校に入学するまではとてもワガママで手がつけられないようなガキだったらしいんだけど、入学してからはそれがピッタリとなくなり、良い子になってしまったんだそうな。別に小学校で洗脳されたわけじゃないと思うし、何が原因だったのかわからないけど、確かに自分でも「泣き叫んで何かを欲する」ことは、小学校入学を境にしてすごく少なくなっていたような気がする。小学校二年か三年のときだったかな、学研から「電子ブロック」っていう、電子部品を組み合わせて色々な実験ができるっておもちゃを買ってもらってからは、随分長いことそれに取りつかれていた。部品の配置を変えることで100種類くらいの実験ができるヤツ。なんとなく電子部品を扱ってること自体が好きで、同じものを持ってる友達と時間を忘れて遊んでた。以前から機械いじりは好きな方だったらしいんだけど、この時に将来の方向を選択しちゃったのかな。電子ブロックの英語解説書を通信販売で取り寄せて、読めやしない本をずっと眺めてたのを憶えてる。この頃から英語に対してはなんとなく興味があったみたい。野球やドッジボールとか、そういう運動系な遊びは全然好きじゃなかったんだけど、家に閉じこもって電子ブロックばかりやっているというわけではなく、外でもよく遊んでたと思う。

 今思い出しても笑っちゃうのが、小学校二年生のときの入院。腎盂腎炎というヤツで約二週間入院するハメになったんだけど、学校に帰ってみるといきなりクラスのみんなに学級委員として推薦されてしまった。この時「ふーん、病気になるとヒーロー扱いされるのか」とか冷静に思ってたのを憶えてる。ホントそんな感じだった。やりたくもない仕事を半年もやるハメになっちゃったんだけどね。

 五年生に学年が変わるときに、新宿に引越したので転校となってしまった。とはいってもとても近い距離の引越しだったので、通おうと思えば昔の学校に通えたんだと思うけど、何も考えずに転校。新たな環境に興味があったしね。こっちの学校のクラスは、前の学校に比べてもっと個性的なヤツラばかり。結局完全に溶け込めることなく二年間が過ぎちゃった気がする。この頃になると僕の劇団の仕事も表面化していたので(五年生のときにNHKの『みんななかよし』のレギュラーだった)、みんなに一目置かれてたんじゃないかな。だからイジメられるということはなかったけど、逆に親しい友人を作るってこともなかった。当時は男と遊ぶよりも、女の子と遊ぶことの方が多かった気がする。

 中学時代は僕にとっては鬼門だった。避けては通れない時期だったんだけど、楽しい思い出がほとんどない。中学一年の時、小学校の頃から親しかった一年上の女の子(その頃は「先輩」なんて考えは丸っきりなかった)と一緒にずっと通学していた時期があって、それを見た誰かの親が僕の担任に連絡したらしい。何もやましいことなどしていないのに、二人とも職員室に呼び出されて「男の子と女の子が一緒に登校するのはどうかと思う」って担任に注意された。先生としてもそういう小言は言いたくなかったと思うんだけど、連絡してきた親の手前上、言わなければいけなかったらしい。今でこそ思い出すだけでも腹立たしい事件で、逆に教育委員会に「おめ~らの教育はどうなっとるんじゃい?!」って殴りこみをかけたいような気持ちだけど、その時は変に波風を立てるのが怖くて、先生の指示に従ってしまった。その女の子は「あたしたち、何も悪いことしてません!」って最後まで納得がいかなかったみたいだけど。この話には後日談がある。その女の子、中学卒業と同時に京都に行って、ずっと彼女の夢だった舞妓さんになる修行を始めた。舞妓さんのことをよく知らなかった僕は、「それってもう時代遅れなんじゃないの?」とか心無いことを言って喧嘩しちゃったこともあったけどね。今から考えてみるとよくそんなバカなことを言えたもんだと、自分でも呆れてしまうんだけど。んで僕が中学三年のとき、修学旅行で京都・奈良に行ったんだけど、その京都の旅館で、その一年のときの担任の先生と保険医の先生にいきなり呼び出された。何事かと思って旅館の玄関に行ってみると、その女の子がそこに立っていた。先生たちと連絡を取り合っていて、僕らが来るスケジュールに合わせて休みをもらって遊びに来たらしい。とてもキレイな京都弁で喋る彼女は別人みたいに見えた。どうやら先生方、何も言わなかったけど、僕が一年のときに彼女との(友達としての)仲を裂くようなことをしたってのを心苦しく思ってたらしい。こんな風に引き合わせてくれるなんてカワイイとこあるじゃん、とか思ってしまった。玉水さん、まだ京都で頑張ってるのかな。

 中学二年の時に、『一年B組新八先生』というドラマにレギュラー出演していた。このためか同級生と上級生には評判が良く、いじめなんかの問題は皆無だった(僕が主役だった『新入生初身体検査』っていう回が放送された次の日はちょっとからかわれたけどね(笑))。逆に下級生との関係は最悪。何故か下級生たちはいつもバカにするような言葉を投げかけるし、前を通るだけで笑われたりした。今でもどうしてかわからないんだけどね。だから下級生のいる階を歩かなきゃいけないときには心が重かった。あんなに「バカにされる」経験をしたのは、僕の人生でこの中学時代だけ。とても悔しかったけど、無視する以外なかった。また中学三年くらいから声変わりも始まり、ニキビも出始めて、どんどん変わっていく自分の容姿と声にコンプレックスを持ち始めていたってことも、僕を落ち込ませる要因の一つだった。特に声変わりは大ショック。それまでは何もしなくても大人に可愛がられていた子供だったんだけど、それが通用しなくなっていくっていうことがとても怖かった。とにかく中学三年のときの僕はコンプレックスの塊で、自分でも暗いヤツだったと思う。確か初恋もこの頃だったと思うけど、巨大な自己嫌悪の塊に隠れて、今でも思い出すときには唇を噛み締めてしまうような、それはそれは暗い思い出。できれば消し去ってしまいたい過去の一つだけど、これを乗り越えなきゃ今の自分はなかったんだろうな。

 さて、初めての受験を乗り越えて、第一志望の高校に入学。一年のときにはまだコンプレックスを引きずっていたので、クラスで仲のいい友達はあまり作れなかった。影の薄い暗いヤツだったと思う。それを助けてくれたのが、音楽部に入部したこと。昔から音楽や歌は好きだったんだけど、まさか本格的にコーラスをやろうとは思ってもみなかった。いきなり廊下で三年の先輩方二人に囲まれて、音楽部の新入生歓迎コンサートへ招待されたことがキッカケ。その先輩の一人が、僕の顔をじっと見つめた後「この子知ってるー!新八先生に出てたでしょ!」と目を丸くして叫んだのが今でも忘れられない(笑)。本当は演劇部に入ろうかと思ってたんだけど、その歓迎コンサートに行ってみるとすごく面白そう。先輩方もみんな笑顔でとてもいい人っぽくて、明るい気持ちになれたのを憶えている。入部してみると同じクラスの男子も一人いたって事もすごく嬉しかった。結局同じ学年で入部した男子は、そいつと僕の二人だけ(途中で一人増えたり減ったりしたけど)。高校を卒業するまで、そいつは僕にとって「一番の友達」になった。これは僕の人生で初めてのこと。二年、三年とクラスは違って一緒に行動する時間も少なくなったけど、「最終的にはアイツがいる」ってのが心の奥底にあって、とても安心できたのを憶えてる。向こうはどう思ってたか知らないけどね。一番の友達といえる人ができたってこと自体が、僕にとっては重要なことだった。同じ学年の音楽部の女の子たちともすごく仲が良くて楽しかったし。

 一年で一番ツラかったのが夏にあった臨海学校。強制参加で、最終的には遠泳をやらされるってヤツ。まるで軍隊に入ったかのような生活。夏とはいえいつも曇りがちの天気で、海はとても冷たかった。それでも朝早くから晩まで水泳の特訓。特に泳げない僕はツラかった。小学校のときにはスイミングスクールに通ってたりしたんだけど、中耳炎になってから行かなくなっちゃって、それ以来全然泳げなくなってたんだよね。最初に、泳げるレベルによって8つのグループにクラス分けされるんだけど、僕は当然その最下位の屈辱的グループ。僕の他には女の子が一人だけ。大嫌いな団体生活、大嫌いな運動部的カリキュラム、大嫌いな水泳主体の毎日。とにかく、僕の人生の中で最高レベルの最低な一週間だった。その中での唯一の救いは、僕の水泳グループ担当の先生がとてもやさしく教えてくれたこと。小さい頃から体育の先生には強い不信感を抱いていた。思いやりがなく力で押し切るような、それでいて体育が得意な生徒には笑顔で接するみたいな。僕が一番嫌いな人間のタイプを僕の中に形成したのが体育の先生方。その水泳を教えてくれた先生は、そんな不信感を打ち破ってくれるような人だった。全く泳げないってことを受け入れた上で、一つ一つ丁寧に教えてくれて、少しでも泳げるようになると満面の笑顔で褒め称えてくれる。だからこっちも頑張ろうって気になった。今までの体育の先生に比べて随分違うので、最初はかなり戸惑ってしまった。でもやっぱり先生ってのはこうでなきゃ。苦い思い出はすぐに忘れてしまう方なんだけど、僕が少しずつ泳げるようになったときのあの先生の笑顔は、今でも頭にこびりついて離れない。この臨海学校の後も、相変わらず他の体育の先生方は虫酸が走るほど嫌いだったけど、この水泳を教えてくれた先生による柔道の授業は、なんとなく心待ちにするような感じだった。藤沢先生、どうしてるかなぁ。

 二年になってクラス替え。新たな名簿を見てみると、一年のときに「問題児」と風の噂に聞いていたヤツらばかり集まっている。本当に、真剣に、マジで、「このクラスでこれから一年やっていけるんだろうか?」って不安になっていた。ところが始まってみるとこれがまた楽しいクラス。みんな個性が強いんだけど、それがいい方向に働いてるみたいで、個人個人の性格が上手く噛み合ってる。少女マンガの学園モノに出てくるハッピーなクラスって感じ。担任の先生も楽しんでたみたいだしね。学園祭では『人形館』っていう舞台をみんなでやって(舞台監督と出演者の一人をやらせてもらった)、演劇部の舞台を抜いて投票で一番人気だった。合唱コンクールでは聖歌隊の衣装を借りてきて『ハレルヤ・コーラス』を唄って、惜しくも二位だったけどベスト・ドレッサー賞も貰ったし。とにかくまとまりのいいクラスで、学校がこんなに楽しいと思ったのはこの時が初めて。自習の時間には何人かで抜け出して、高層ビルの上までケーキ食べ放題の店に行ったりしたし。とにかく一年の時とは大違い。クラスの中の一人一人が本当に好きだった。みんなと行った広島・京都の修学旅行も楽しかったな。

 三年では、理系と文系に分かれるようなクラス編成になった。二年のときのクラスのような強烈な個性はないし、ちょっと大人しめのクラスだったけど、居心地は悪くなかった。二年のときの担任の先生がまたそのクラスの担任だったしね。でもやはり三年ということもあって、受験勉強以外のことはあまり憶えてない。担任が物理の先生だったので、僕の物理の成績が下がったときには大目玉喰らったなぁ。僕のことをすごく気にかけてくれてたのがわかったから、叱られても嬉しかったけどね。家庭教師の先生もつけて、猛勉強してやっとのことで叱られない程度まで点数を上げることができたんだけど、やっぱり物理は最後まで苦手だった。最初の頃は数学も物理も大好きだったんだけど、途中から「なんでこんなことやらなきゃいけないんだろう?」って思い始めちゃって、それが運のつき。確かに基本は知っておいて損はないと思うけど、微積分や物理の難しい公式はよほどのことがない限り社会に出て使わないしね。僕って、必要性を感じないとヤル気が出ない性質なんだよなぁ。だから歴史が一番の苦手だった。昔どんなことがあったかっていう大まかなストーリーを掴んでおくことは必要だと思うけど、年号や名前を憶えるのにどんな必要性があるんだろうってずっと感じてた。逆に英語は社会に出てから絶対に役に立つと思ってたんで、すごく頑張れた。英語テストの最高点が全ての文系クラスを抜いて、ウチの理系クラスから二人も出てたってのは笑ったね(僕と、もう一人は小さい頃アメリカで育ったヤツ)。三年の時はとにかく受験勉強一色だった。夏休み時期には『アニメトピア』っていうラジオ番組のイベントであちこちに行けたんで、それがいい息抜きになったけどね。

 大学は国立と、私立を二つ受けたんだったかな? 共通一次(うー懐かしい響き)はかなりいい点数が取れたんで国立を期待してたんだけど、その大学での二次試験の…数学のテストの時間だったかな、半分くらい回答したところで、トイレに行きたくてしょうがなくなって、破裂寸前で結局席を立ってトイレに行かせて貰った。こんなことは初めてだった。帰ってみると当たり前だけど答案が伏せられていて、続けていいかどうかわからなかったので(トイレで何かを読んでカンニングをしたと思われたくなかったし)、結局そのテストの時間が終わるまで何も書かなかった。今から考えると、人生の大事な試験なんだから、続けていいのかどうかちゃんと聞いてから続ければよかったのにね。でもホントに、こういう所でシャイな僕はその時は絶対に手を上げられなかった。他の教科は楽勝だったので、たぶんそのトイレ事件のせいで国立は落ちたんだと思う。こんなこと恥ずかしくて、今まで誰にも言えなかったんだけどね(笑)。あの事件があって以来、同じ場所に長くいなきゃいけないような時(映画、セミナー、観光バスとか)には、トイレに関してすごく神経質になってしまう。なるべく水分を摂らないようにして、ドアが閉まる直前に必ずトイレに行くようにしてるし。あの試験のときのような経験はもうコリゴリだよ。

 結局一つ私立に合格して、そこに行くことに決めてしまった。担任の先生は、一年浪人してもっといい大学を受けろって勧めてくれたんだけど、「浪人」は僕のオプションには存在していなかった。大学が人生の全てを左右するとは思えなかったし、人生の中の一年を(僕にとっては)無駄に勉強に費やすってことは絶対に出来ない。心配してくれる先生をなだめて、その私立に入学することに決定。まぁ浪人していたら別のいい人生があったのかもしれないけど、今の段階ではその時の決断は正しかったと思う。

 卒業式や卒業コンパでもかなり感極まった覚えがあるけど、一番ツラかったのは音楽部の「追い出しコンパ」の後。僕にとっての一番の友達だったヤツと新宿駅で別れるときには、「あー、もうコイツと毎日のように会える日は来ないんだ」って、心の中にモワッと広がる、悲しみと不安感の入り混じった不思議な気持ちを初めて経験した。涙は堪えたけど、その不安な気持ちは二、三日ずっと消えなかった。 

 大学は思っていたよりも高校とは違っていた。クラスというものは一応はあるにせよ、教科の選択などによって、今までのようなクラス内での人と人との繋がりは無きに等しい。一年のときに、学科の全員でつくば博に行ったのが最初で最後の「今までの学校らしい」行事だったんじゃないかな。驚いたのが、勉強に対する考え方の人による違い。真面目に勉強に取り込んでる人達が半分、丸っきり遊び呆けててレポートも人のを写すだけってヤツラが半分という状態。その後者のヤツラが授業を妨害することもあって、最初の頃はどうなることかと思ったね。クラスでの人の繋がりが全く無い状態で、友達を作るには部活動や研究会に入るしかない。どっちも強制じゃなかったと思うんだけど、それじゃやっぱり悲しいってことで、グリークラブ(男声合唱団)と電子計算機研究会(略してEDPS)に入ることにする。グリークラブは入ってはみたものの何となくノリが体育会系なので、すぐに辞めちゃった。残るはEDPS。こちらは大学で唯一真剣にコンピュータに取り組んでるグループらしい。大学には情報処理センターや情報処理の科目があるとはいえ、先生方の方がそれに用意できてないらしく、大学でコンピュータを使っている人というのは珍しかった。「うわぁ、大学選び失敗しちゃったかな」ってこの時点で思ったね。EDPSで良かったのはその中の人達。先輩方もみんな優しくて、なんとなく高校時代の音楽部の先輩方を思い出させてくれた。僕が中学・高校時代にASCIIというコンピュータ雑誌に投稿していたのを知ってる先輩もいたし。EDPSから学ぶことは少なかったんだけど、徹夜勉強会とか合宿は楽しかったな。合宿では第二種情報処理技術者検定試験の勉強をして、その後秋にみんなで試験を受けに行くことになってた。合宿での模擬テストで一位を取ると本番のテストで落ちるっていうジンクスがあったらしいんだけど、それを打ち破ってきました(笑)。

 この合宿では本当にいろんな人と仲良くなれて楽しかったんだけど、何より嬉しかったのが、大学での一番の友達と仲良くなれたこと。彼は高校の仲のよかった友達とは似ても似つかないタイプ。すごく真面目(マジメすぎて失敗することもしばしば)なんだけど変なユーモアがあって、一緒に居て全然疲れない。それからは一緒の授業のときには隣に座って喋りまくったり(「デッタイ誤差」…インサイダージョーク)、週末にどっかに遊びに行ったりとかして、すごく楽しかった。いつだったか、彼のアパートに遊びに行って、何をすることもなくお互いにマンガかなんかを読んでたんだよね。んで、しばらく経った後そいつがポツリ、「なんかさー、こうやって何も話さないで、長時間いても気を遣わなくていいってのはスゴイことだよな」って言う。まさに僕が思っていた通りの事を言われてビックリ。あの時の「そうそう、そうなんだよー!」っていう喜びは今でも忘れない。そんな風に感じることのできる友達は絶対に貴重だと思う。「親友」って言葉は照れくさくてあまり使えない方なんだけど、彼みたいなヤツが「親友」って呼べるんだろうなって、ずっと思ってた。かなり僕がワガママ言ったりしてたから、向こうにとっては全然親友でも何でもなくて、ただのうるさく付きまとってるヤツみたいに思われてたかもしれない。でもホントにこいつに出会って、友達っていいなって心から感じることができた。

 旅行記「ああ、憧れのアメリカ」にも書いたんだけど、この大学では本当に何一つ、役に立つことを学ばなかった。……あ、一つだけあった。英会話。アメリカ人の先生が一人だけ居たので、初めて生の英語の中で授業を受けられたってことがすごく嬉しかった。時間の関係上、英語のクラスを全て取ることができなかったんだけど、このアメリカ人の先生に頼んで、単位はいらないってことで、時間が許すときだけ授業に出させてもらうことにした。やっぱりネイティブな英語での授業は楽しい。その先生に頼まれて、秋葉原に電話機を買いに行くのに付き合ったことがあった。そんなことを頼むくらいだから日本語は話せないんだろうと思ってたんだけど、店ではかなり上手に喋ってるんだよね。そんなに喋れるんなら一人で来れたじゃんとか思いながらも、楽しい「個人授業」の時間だった(笑)。ま、それは置いといて、英語以外は本当に学ぶものがなかった。情報処理担当の先生なんかも、問題を持ってきて僕に模範解答を作ってくれなんて頼んでくる始末。それは喜んでお引き受けしちゃったんだけど、他の授業のカリキュラムがもの凄く古臭くて時代遅れな感じ。まぁマーケティング・リサーチとか、品質管理の概要は面白かったけどな。あー、あと化学の実験も楽しかったな。今の僕の職業では使わないようなモノばかりだけど。だからこの大学から得たものは、友達と時間だけ。最低の単位で卒業できるように工夫してたんで、かなりヒマはあった。そのヒマな時間には、ASCIIや今の会社の日本支社でバイトしたりして、そこでも人脈を広げたり技術を学んだりしてた。大学なんか行かないでもよかったかなとか時々思うんだけど、そうすると友達とは出会えなかったり、今の会社でグリーンカードを取ってくれるときにもっと面倒なことになってたと思うんで、結果的に良かったんじゃないかな。それでも、もっと学びたいと思っていたコンピュータ関連のことを学べなかったってのは大きな痛手だった。

 学生時代、明もあり暗もありって感じだけど、一貫して言えるのは、勉強以外にも”People Skill”を学ぶ場所だったんじゃないかなってこと。この世界は本当に様々な人で溢れていて、今でも人々の性格の多様性に驚かされることばかり。学校っていう場所は、自分の中にある、異なった考え方の人々を受け入れる容器を、少しずつ拡張する場所だったんだと思う。だとしても、もう少し社会に出てから役に立つカリキュラムの研究を続けてほしい。今の詰め込み式教育は、「勉強」っていう言葉の雰囲気を最低に悪くしてると思う。興味のある事柄について学ぶことって、本来は楽しいことじゃないのかな?
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by alexsea | 2002-06-24 00:00 | エッセイ | Trackback | Comments(0)
シアトル生活
 僕がシアトルに着いたのは93年の8月18日。最初は一年から一年半の、長期出張の予定だった。シアトルには88年に二ヶ月滞在していたことはあるんだけど(「ああ、憧れのアメリカ」参照)、今度はちゃんと自分でアパートや車を持つことになるし、それに子供の頃からの夢だったアメリカ長期滞在ということで、かなりワクワクしていた。

 最初に入ったアパートは、会社の人が決めた場所だったので、オフィスから歩いても行ける距離のレドモンド(Redmond)という小さな町にあった。ここは確かに閑静な住宅街といった雰囲気で、自然も多くとても静かで、家族で暮らすにはいいかもしれないんだけど、いかんせん僕は都会生まれの都会育ち。街のネオンとノイズがすごく恋しかった。それにオフィスに近いアパートに住んでいると、週末とかも気づいたらオフィスで仕事してたなんてことが多々。これじゃやっぱり人生楽しめないってことで、約一年後の94年の夏に、シアトルでアパート探しを始めた。最初に行った場所は、Capitol Hillという丘の繁華街のすぐそばにあるアパートで、新築に近いようなビルだった。このアパートに着く直前に、ふと車の時計を見ると2:19を指してる。2月19日は僕の誕生日なので、お、なんかいいことがありそうかなって予感を胸に、最初に見せてもらったアパート番号はなんと219号室。笑っちゃったね。219という偶然は抜きにしてもすごくいい場所だったんで、ほとんど即決してしまった。他のアパートも見て回ったんだけど、この最初に見た部屋よりもいい場所はなかったし。お値段も月$880+駐車場代$50ということで、お手頃だったし(長期出張に対する会社の方針が変わるまでは、僕は何も払わなくてよかったし(笑))。

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アパートの見取り図

 このアパートに94年の9月に入ってからはすごく楽しかったなぁ。とにかくCapitol HillのメインストリートであるBroadwayに1.5ブロックの距離。歩いて行ける距離にレストランやスーパーや色々な店があるし、なんとアパートの一階にはコンビニがあるという超便利な場所。何よりもBroadwayはただ歩いてるだけでも楽しい場所だったんで、近くにいいアパートを見つけることができて本当に嬉しかった。渋滞で有名なワシントン湖にかかる浮き橋を毎日渡って仕事に行かなきゃいけないってのがナンだったけど、フレックスタイムなので、渋滞を避けて通勤すればよかったので、それほど苦痛じゃなかった。

 10月には会社の友達と一緒に近くのバーに飲みに行って、そこで知り合ったTimからまた友達を紹介されて、結局Tim、Ed、Tom と僕っていう、4人グループが出来上がった。いつも4人で遊んでたので、自分たちで”Four Musketeers”(四銃士)って呼んでた。一緒にダンスクラブに踊りに行ったり、パーティーに行ったり、バンクーバーまで遊びに行ったりとか、なんかホントに一所懸命遊んでたって感じ。楽しかったなぁ。彼らと一緒にいるようになってから、英会話も随分上達したように思えたしね。

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「四銃士」+1
左からTim, Ed, 紅一点Betty, Tom, 僕
確かみんなで"Miss Saigon"を観に行った後

 シアトルで長く暮らすようになると、今までそれほど目立たなかったような文化の違いもだんだん分かってくる。まず思ったのは、アメリカって大人でも遊ぶのがすごく上手いってこと。日本で「遊び」っていうと、会社の帰りに飲み屋やカラオケに行くとかそんな程度だったけど、こっちの大人は全然違う。スポーツジムのコートで大人ばっかりでバスケットボールやラケットボールをしたり、みんなすごくスポーティー。シアトルは海や湖もたくさんあるので、ヨットやボート、カヤックや水上スキーなんかも、まるで普通に楽しんでる。自然もいっぱいなんで、ハイキングやキャンプなんかも日常茶飯事のように行われてるし。とにかくみんな本当に遊びが上手。夏以外は晴れの日が少ないから余計になのかな、晴れるとみんな一秒でも多く太陽を楽しもうと、みんな外で遊んでる。大人でも「遊び」っていう言葉の定義が変わってないんだなって、感心してしまった。

 あと、シアトルという街と人々は、どうも僕が訪れた他の街よりもずっとlaid backだってこと。うーん、いい日本語が思いつかない。「落ち着いてる」っていうのかなぁ、とにかく他の街にあるようなアクセクしたところがない。みんな自分のペースでそれぞれの人生をエンジョイしてるみたいで、見ていてすごく心地よい。だから僕も、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃって急かされるようなことはなく、自分のペースでシアトルの色々な面を発見できたんだと思う。

 いい所ばかり書いてきたけど、シアトル…っていうかアメリカには僕の気に入らない所もたくさんある。まずは小さいところから。トイレの個室。なんで仕切りの下にでっかい隙間があるんだよー! 所によってはドアの高さ自体が低くて、すごく背の高い人からは中が見えちゃうこともある。中で犯罪とか○○○が起きないようにってことらしいけど、それにしてもちょっとオープンすぎやしませんか? 男性用の便器も「なんでこんなに高いかなぁ?」って感じだし(笑)。まぁ細かいことはそのくらいにしておいて、本当にアメリカの文化自体でイヤだなって思うものは、宗教と政治のミックスアップと、訴訟社会だということ。アメリカに住んでみて、いかにこの国がキリスト教に深く関わってるかってことを思い知らされた。いつだったかな、どこかの州で、ある判事が聖書の言葉を引用して、仕事もお金もあるゲイの父親ではなく、酒やドラッグの問題のある母親に子供の養育権を与えたことがあった。これはとてもショッキングだった。確か一番下の裁判所での出来事だったと思うのでこの後どうなったのかわからないけど、法に携わる人間が宗教上の理由で判決を下したってのが、僕にはどうも納得がいかなかった。宗教って、いい面があるのはもちろんなんだけど、政治とつながると、人を動かすためのパワーとして使われちゃうことがあるからなぁ。あと、何でもかんでも訴えたがる人達。ついこの前の話だけど、僕の大好きなオンラインRPGゲームのEverQuestに取りつかれたヤツがいて、ゲームをするために大学もやめてバイトもやめて、家からほとんど出ずにゲームばっかりやってたんだって。それでゲームの中で誰かにフられたらしく、その日に自殺しちゃったんだって。んで、母親は「中毒になるくらい危険だってEverQuestの箱には書いてなかった」って、発売元を訴えるかもしれないという話。……訴える前に、アンタは息子の中毒を止めさせるために一体何をしたの?って感じ。みんな誰かに何かの責任を押し付けたがってる。確かにオンラインゲームの虜になる人が多いんだけど、訴訟でそれは解決しないよって言いたい。何か他の道を探さなきゃ。

 話を元に戻して明るい話題。シアトルで好きな季節は、やっぱりクリスマス間近の12月かな。これは新宿に住んでたときもそうだったんだけど、クリスマス前って、街全体が輝きを増すような気がする。シアトルではダウンタウンのショッピングエリアである4th Avenueあたりの木に全部イルミネーションが灯されて、寒いんだけど心の中が暖かいって感じ。家々もライトで飾るところが多くて、所によってはものすごいイルミネーションで、テレビのニュースとかで紹介されたりする家もある。

 そのクリスマス間近に、初めて怖い体験をした覚えがある。会社でCapitol Hill付近に住んでる人達のメーリングリストに入ってたんだけど、その周辺で道を歩いているときに金品のために襲われるケースが増えているってことを読んだ。それを読んだ日、僕も気をつけなきゃなってことで、アパートの近くのバーに行くときに、財布を家に置いて$20札だけ持っていったんだよね。バーで何杯か飲んだ後、いい気持ちになって裏通りをアパートに歩いて帰ってたら、車が後ろから近づいてきて「この辺にKマートはないか?」とか聞いてくる。立ち止まって「いや、僕は知らないけど」って答えた瞬間、その車の中のヤツがタオルに包まれた銃みたいなものを取り出して”Give me your money!!”と叫ぶ。僕は冷静に「あー、やっぱり来たかー」なんて思ってたのを憶えてる。ポケットの中にあった、バーで使ったお金の残りを全て差し出す。2~3杯ビールを飲んだだけだったので、まだ12~13ドルはあったんじゃないかな。でもお釣りってことで全て$1札だったから、結構バルクはあった。それもラッキーだったよね。向こうは札束を差し出されたと思って、全て掴み取ると、急スピードで発進して行ってしまった。僕は全部$1札だってバレたら怖いと思って、角を曲がって走って大通りまで出てからアパートに帰った。落ち着いていたとはいえ、やっぱりかなり動揺していたのか、車のナンバープレートを見てなかったことに気づいて、すごく悔やまれた。家に帰り着いて、会社の友達にネットでそのことを話したら、すぐに警察に電話しろと言われた。初めて911をダイヤルして、約10分後に警官がアパートにやってきて、いろいろとその時の状況とかを聞いてきた。変に抵抗しないでお金を渡したのは正解だったって言われた。財布を家に置いていったこともね。僕自身はなんかすごく冷静だったんだけど(あのタオルに包んだ銃らしきものもただのパイプのような気がしてたし)、警官の方が「じゃあ僕は帰るけど、一人で大丈夫?」とか心配してくれちゃってたのが嬉しかったね。というわけで教訓: 貴重品は持ち歩かない&裏通りは通らない。シアトルはとても安全な街の一つなんだけど、やっぱり犯罪が起きてるっていう事実は他の街と変わらない。特にクリスマス時期はそういう事件が増えるらしいんで、皆さんも要注意。

 結局、Broadway近くのアパートには2年ちょっと住んでた。すごくいい場所だったんだけど、やっぱり自分の家を持ちたいっていう夢があったので、あまり家具らしい家具は買ってなかったんだよね。96年の11月に、例の四銃士でブランチをしたときに、銀行で家の査定を職業にしてるTimが、僕が「好きそうな」物件をプリントアウトしてきてくれた。家探しを始めようとは思ってたんだけど、実際には何もしてなかったもんだから、このプリントアウトは有難かった。その一番上に載ってた物件が、僕の考えていた金額レンジよりもかなり高かったんだけど、すごくよさそうなんだよね。このブランチの後にみんなでちょっと見に行ってみることにした。着いてみると、新築だし、かなり大きそうな家だし、なによりも場所がいい。ユニオン湖を一望できるような場所に建ってる。中には入れなかったんだけど、次の日にOpen Houseをしてるらしくて、またみんなで一緒に来ることにした。さて次の日、家の中に入った瞬間、恋に落ちてしまった。景色、間取り、天井の高さ、全てに圧倒されてしまった。キッチンに備え付けられているオーブンには時計が付いてるんだけど、このとき何時だったと思う? 2:19!! これはもうお告げでしかない。

 余談だけど「アメリカ国立公園めぐり 第四弾」で、Colorado National MonumentからMoabの町に向かう途中に、時計がちょうど2:19を指していたので、同行者のアッキーにアパートと219の不思議な関係の話をしてたんだ。アメリカのフリーウェイって、その道の始まりから何マイルっていう小さな標識がマイル毎に立ってるんだけど、この話をし終えた直後に見た標識は”MILE 219”。二人して「こええぇぇぇー!」とか叫んでしまった。ウソのような、ホントの話。

 話を元に戻します。んで結局その家がすごく好きになっちゃったんだけど、ローンが組めないことにはしょうがないってことで、ローン会社の人に電話をかけて聞いてみる。翌日折り返し電話がかかってきて、あっさり承認されてしまったとのこと。うー、マジですか? でも一つ物件を見ただけで決めると後悔しそうだしなぁ。というわけで、友達で不動産の仕事をしてるTessに、そのプライスレンジで物件を何件かリストアップしてもらって、みんなで見て回ることに。全部で5~6軒見て回ったんだけど、どれもピンと来るものがないんだよね。あの最初の家を見ていなかったとしても、他の家は僕の直感に働きかけるものがない。なんとなくこの時点でもうわかってたんだよね、あの最初の家を買うことになるだろうってことが。もう決めちゃったら、他の人が手を出す前に手に入れなきゃいけない。すぐに不動産屋にコンタクトを取って、こっちのオファーを伝えてもらう。向こうも値段を下げてきたんだけど、こっちのオファーほどではない。あまり下がらないだろうとは思ってたんで、それで即決してしまった。後で聞いてみると、僕が決断した次の日に、他の家族からのオファーがあったそうな。ぎりぎりセーフ。小さい頃から借家生活が多かった僕にとっては、家を買うことは究極ともいえる夢だった。それが実現できた今、「なんかスゴイ決断を下しちゃったな」っていう不安は拭えなかったけどね。

 さぁ家を買ったとなると、次に来るのは家具探し。自分でヘンなのを選んで後悔するのもイヤだったので、コーラスのメンバーでインテリア・デザイナーのSteven Longに、デザインと家具探しを手伝ってもらう。もちろんお金は払いました(友達割引はしてくれたけどね)。とりあえず客から普通は見えないようなベッドルームとかは安い家具で済ませることができるので(笑)、玄関からリビングルームにかけてのデザインをお願いすることにする。まずStevenに僕がいろいろな希望を告げる。家の雰囲気はモダンな感じなんだけど、所々にトラディショナルなデザインもしてあるんで(天井と壁の接合部分にはCrown Moldingっていうモノが使ってあるし)、そのちょうど中間っぽいデザインの家具を入れたいと思った。ModernとTraditionalの中間は、Transitional(トランジショナル…「移行期の」)って言うんだって。Stevenが色々な調査をした後、家具をどこに置くかとかを書いたレイアウト図を、プランAとプランBの二枚持ってきた。その二つを見ながら、自分の希望も入れながら、最終的にはその二つのプランをミックスしたような形になった。レイアウトが決まると、今度は家具選び。デザイナーとしか入ることのできない、Seattle Design Centerというところに行って、色々な家具を見て回る。購入が目的ではなく、僕がどんな家具が好きかをStevenが知るための場所。後日、Stevenがいろいろな家具の候補写真を持って来る。いくつかの目につく家具、例えば玄関を入ってすぐのところに置くテーブルとか、リビングルームの真ん中に置くチェストみたいなヤツとかは、ちゃんとしたブランド物を使うことにした。これらはStevenが持って来た候補で、ほとんど即決だった。さすがだね、とか思っちゃった。今までのミーティングから、僕がどんな雰囲気の家具が好きかがもう分かってしまったらしい。リビングに置くソファとデイベッドは、僕の好きなヤツをStevenが厳選した3つくらいの中から選んだんだけど、そのメーカーからは買わずに、工場に頼んで同じようなヤツを作ってもらうんだそうな。その方がずっと安上がりなんだって。う、盗作ですか?とか思ったんだけど、値段を聞いてナットク。カーペットの色と柄を選んで、それに合うようなソファとデイベッドの素材を決め、その上に置くソファ用の枕っぽいヤツはStevenが自分でデザインして布も選んできた。即決! ランプや、あっちこっちに置く大きなカメに入った枝や、リビングの窓につけるシェードも、僕の希望を言ってStevenが全部アレンジしてくれた。デザイン完了まで2ヶ月くらいかかったんじゃないかな。それから家具が来るまで3ヶ月はかかったし。泣くほどお金がかかったけど、Stevenの力を借りて本当によかったと思ってる。やっぱりプロは違うよ、プロは。

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Stevenが揃えた様々な資料

 普通大きな買い物をした後は「あー、あんなに金を使ってよかったのかな」って”Buyer’s Remorse”っていう後悔をすることがあるんだけど、この家に関しては5年以上経った今でも、後悔の気持ちは微塵もない。そりゃ他の人の家に行ったときに、「ウチもこんな静かな庭があればよかったのになぁ」とか思うことはあるけど、結局の所まだこの家にラブラブです。売りたいなんて気には全然ならない。でもやっぱり家はいろいろと大変。庭はないに等しいとはいえ、放っておくと雑草だらけになっちゃうし、何か問題が起きたときも、アパートの時には管理人に知らせて直してもらえばよかったのが、今は自分で処理しなきゃならないし。かなりモノグサな性格なんで、そういったアレンジが大っ嫌い。Koreyっていうルームメートがいなきゃ、もの凄く大変だったと思う。彼はそういう細々したことが好きらしいので、何か問題が起こったら頼んで直してもらえばいいし(笑)。ってなわけでモノグサは今でも続いてたりする。

 この家に入ってから、大きなパーティーを催すことが多くなった。とくに7月4日の独立記念日のパーティーは、ウチの名物パーティーになってしまった。家の真ん前からユニオン湖が見えて、そのど真ん中から花火が上がるもんで、花火を間近に見たい友達や、友達の友達が大勢来てくれる。「通りかかっただけなんだけど、楽しそうなパーティーらしいから覗いちゃだめ?」っていう全然知らない人達も招き入れちゃうもんだから、とにかく全員を把握できないようなハチャメチャパーティー。でもやめられないんだよねー。友達の中には「こんなに大勢の人を家に上げるなんて度胸があるよなー」って言うヤツもいるけど、家は住んでりゃ汚れるもんだし、それを怖がってたら何もできなくなっちゃうよ。ただ、どこの誰ともわからないけど、翌日バスルームに入ってみたら僕のコロンがなくなってたなんてこともあったけどね(笑)。今年のパーティーもあと二週間後、楽しみだなぁ。

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独立記念日パーティー
リビングルームに集う人々の一部
(半分くらいしか知らない!)

 アメリカって国は広い。このシアトルと、例えば東海岸や南部の方なんかとは、全然文化も人も違うと思う。まだその違いを経験できるほど他の場所に住んだことがないんだけど、いつか他の州にもちょっと住んでみて、いろいろな違いを肌で感じてみたい。
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by alexsea | 2002-06-20 00:00 | エッセイ | Trackback | Comments(0)
 僕は酒が大好き。ないと生きていけないわけじゃないけど、やっぱり最低三日に一度は飲みたい。

 母がスナックを経営していたので、子供の頃から僕の飲酒に対しては理解があった。自分で責任が持てる範囲内では飲酒は認めてくれていた。中学三年のときに帝国劇場で『王様と私』という舞台を演らせていただいたのだが、その打ち上げパーティーの時にコークハイ(コーラ+ウィスキー)を飲んだのが、一番最初の飲酒体験だと思う。それまでにも親戚の家に行ったときなんかに、ビールを一口だけもらったり、正月にはおとそをもらったりしてたんだけど、コップ一杯まるまる自分のものとして飲んだのは、その中三の時が初めてだった。その時はすごく薄かったらしく、自分の変化には全然気づかなかった。母も一緒だったので、「あらー、あんたも飲めるのねぇ」なんてのん気に笑ってたのを憶えてる。

 最初に「酔った」体験をしたのは、高校一年の時。TBSの単発ドラマ『17歳の戦争』ってのに出させてもらったんだけど、その打ち上げが赤坂見附のある店であったとき。『みんななかよし』で一緒だった尾美としのり君ともこのドラマで一緒だったので、結構楽しく白ワインをグビグビ飲んでたんだと思う。途中から「あれ? なんか視界がおかしいな」って思い始めた。視点を移すときになんとなく視界がついていってない感じで、なーんか妙。全然気持ち悪いとかそういうのはないんだけど、自分の体に起きた変化がとても興味深かった。おー、これが酔うって感じなんだ!って思いながら、その初めての体験を楽しんでた。

 この頃はビールは全く苦手だった。今でもビールはそんなに好きな方じゃないんだけど、あの苦味がどうにも美味しいとは思えなかった。その頃好きだったのはマテウス・ロゼ。ポルトガルの発泡ワインで、今の好みから考えると信じられないくらい甘かったと思うんだけど、あの頃はこの世で一番の美酒だと信じてた(笑)。というわけで、高校で「コンパ」(あ~なんて懐かしい響き)をやるようになってからは、僕のお気に入りはチューハイ。それとの出会いは、劇団のメンバー永久くん(年上なんだけどずっとクン呼ばわりしてた(笑))と今は亡き長谷くんの三人で、同じく劇団のメンバーの冨永みーなの舞台を見に行った帰りだった。確か永久くんが新宿で飲もうぜって言い出して、僕にとっての最初の居酒屋「北の酒場」に行った。何を頼んでいいか全然わからないもんだから、僕と長谷くんはビールを、永久くんはチューハイを注文したんだよね。ビールが出てきて「うげー、マズイ」とか思いながら飲んでたんだけど、それを察した永久くんからの「このチューハイちょっと飲んでみる?」とのお言葉。飲んでみてビックリ。全然苦くないし、これが酒?って思うくらい軽くて爽やかで飲みやすい。すごく気に入ってしまったので次に頼もうと思ってたら、永久くんがビールと取り替えてくれた。それからはコンパとか、居酒屋に行く度にチューハイばっかり飲んでた気がする。チューハイは僕の酒好きの架け橋となったワケ。

 最初に二日酔いを経験したのは、『銀河漂流バイファム』というアニメの打ち上げパーティーのとき(なんか打ち上げばっかし(笑))。確かこの時もチューハイばっかり飲んでて、二次会にまで行っちゃったんだよね。まだ高校三年だったんだよなぁ、この時。その夜は全然平気だったんだけど、次の日起きてみると、すごく頭が重くて気持ち悪い。おまけに母が昼にドライカレーなんて匂いのキツイものを作ってくれちゃったりするもんだから、またそれで吐き気を催したりして…。そんなことがあったもんだから、今でもドライカレーの匂いをかぐとその時の事を思い出して、ウップとかなったりする。本当はその日は図書館かどっかに行く予定だったんだけど、一日中寝てなきゃいけなかった。酒はこの日まで楽しいだけのものだったけど、この時に酒のダークサイドというものを知った気がする。それでも酒をやめようという気にはならなかったから不思議。このお陰で自分の限界を知れたってのはよかったと思う。

 酒を飲むと、僕の一番気に入っている所が表面化するような気がする。フレンドリーで、楽しいこと好きで、気遣いの精神も倍増するみたい。初めての人と飲むときにも、本来の僕ならば結構シャイで、話しかけてもらうまであまり話せなかったりするんだけど、酒を飲むとこれが一転して、どんな人とでも仲良くできてしまう(限度はあるけどね。その場の雰囲気を壊す人にはどんなことがあっても仲良くできません)。酒を飲んでる時の自分が一番好きだな。こんなことを書くとアル中みたいに思われるかもしれないけど(笑)、別にそのために酒を飲んでるわけではないのでご安心を。僕は酒はあくまで味+雰囲気で飲んでる。まー、酔いたいから飲むって時もタマにあるけどね。

 僕が好きな酒は、ワイン、日本酒、ウォッカ、ジンって感じ。ビールはそれしかないときに飲むって感じ。ウィスキーやバーボン系は僕にとっては重過ぎるらしく、かなり口当たりのいいものでないと飲む気がしない。ワインは甘すぎるもの以外は結構なんでも来い。フランス・カリフォルニア・オーストラリア系が中でも好きかな。白だったらどっしりとしたOakyでButteryなヤツが好き、赤もフルボディで、でもフルーティーなアロマを失ってないヤツが好き。今まで飲んだ中で一番美味しかったのは、ビンテージは忘れたけど、Louis LatourのCorton-Charlemagne。とにかく味が何層にも重なってる感じで、こんな味がこの世界にあったのか!ってくらいの感動だった。最初に感じた味が終わりじゃなくて、その一秒後には違う味と香り、その一秒後にはまた別の味と香りが口と鼻腔の中に広がる。「ワインが口の中で踊ってる」って表現がピッタリ。本当に感激した。高いからそうそうは飲めないし、ビンテージによってかなり違うみたいだから、またその時みたいな感動を味わえるかどうかわからないけど、ワインってものの可能性をまざまざと見せつけられた気がした。

 日本酒で同じように感動した酒は「亀の翁(かめのお)」という酒。日本で働いていたときに、回りが酒好きな人ばかりだったのでよく飲みに行ったりしてたんだけど、『夏子の酒』っていうコミックから日本酒がうちらの回りで大ブームになった時があって、そのコミックのモデルになった酒がその「亀の翁」だった。生産量が少ないらしくそれ以来見たことがないんだけど、いつかまた出会えることを楽しみにしている。口に入れた瞬間、虹が舌の上に広がった気がした。僕の大好きなワインと同じように、様々な素晴らしい味が何層にも重なっていて、それが舌の上で像を結んでる。虹の味ってこんな感じなのかなって思っちゃったくらい。とにかくそれまでに体験していた甘ったるい日本酒の概念を全て覆してしまうような、革命的な出来事だった。それ以来、日本酒は大好物。特に美味しい日本料理を食べながら飲むと、本当に至福の時を味わえる。現在のお気に入りは「玉乃光 純米大吟醸」。お手頃な値段だし、ピンとした力強い背骨を持っていて、その上に色々な美味しさが乗ってる感じ。日本に母が帰るたびに買って来てもらったりしてる。シアトルじゃ美味しい日本酒が手に入らなくて…。

 その他、特筆する酒としては、ズブロッカというウォッカがある。これは新宿にある僕の一番のお気に入りの店「ハングリー・ハンフリー」で知った酒。ウォッカの中に一本、バイソンの好物だという草が入っていて、それが何ともいえない素晴らしい香りをウォッカにつけている。これをソーダと一緒に飲むともう最高! 特にそれを、ハングリー・ハンフリーの素晴らしい料理と一緒に飲むと、もう死んでもいいかもって感じ(あー、懐かしきミートボール・カレー味)。実は今もこれを飲みながら書いてたりする(笑)。アメリカじゃ手に入らないんだよね。日本だったら普通の酒屋で買えたりするのに…。だから日本の友達に頼んで買って来てもらったりしてます。

 もう一つだけ。いつも飲んでるカクテルとしては、"Glacier Blue"(氷河の青)っていう、シアトルのFour Seasons Hotelのバーが作り出したマティーニがある。これはBombay Sapphire Ginが半分、Stoli Gold Vodkaが半分、それにほんの2~3滴(入れすぎちゃダメ)Blue Curaçaoを入れてシェイクしたマティーニ。レモン・ツイストを加えて出来上がり。透き通った、まるで氷河のような空色の、キレイで美味しいマティーニ。Bombay Sapphire Ginだけだと、ちょっとだけとはいえ、やっぱり独特のクセが出るんだけど、Stoli Goldを入れることで少しだけ口当たりが軽くなる。それにバーで頼んで飲んだりしてると、「それは何? すごくキレイ」って聞かれたりするし(笑)。シアトルでも二つのバー(Garden CourtとOliver's)しかこのカクテルを知らないので、他の場所ではいちいち作り方を指示しなきゃいけないのが難点。でもマティーニ好きなら気に入るハズ。ぜひぜひお試しあれ。

 飲めない人や、悪い酔い方をする人がたくさんいる中で、僕は酒に好かれて本当にラッキーだったと思う。アメリカに来てみて、この国でいかに酒が大問題かということを目の当たりにした気がした。少なくとももう5人以上の人が「あれ、飲まないの?」という質問に、「アルコールで以前問題を引き起こしたことがあってね」って答えた。以前住んでたアパートのすぐ前にも、AA (Alcoholic Anonymous)っていう、アルコール依存症の人たちが集まって、お互いに体験談を話すことで助け合うっていう場所もあったし。アルコールのダークサイドに飲まれちゃった人が、ここには本当にたくさんいる。今でも、光と影とは表裏一体なんだということをちゃんと心に留めながら、命の水を飲んでいる。
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by alexsea | 2002-06-16 00:00 | エッセイ | Trackback | Comments(0)
予知能力
 何を隠そう、僕には予知能力がある。というか予知能力がある「時期があった」。…と思う。小さい頃から超能力とか心霊現象にはすごく興味があった。ちょうどスプーン曲げとか流行った時期があったので、自分でも曲げてみようと必死になって頑張ったけど、結局ダメだったという経験がある。

 僕が中学一年の春、詰襟の学生服にやっと慣れかけた頃それは起こった。先生に次に当てられるということが、ほとんど百発百中でわかる時期が二週間ほど続いた。最初は先生と目が合ったから当てられたんだとか、当て方に規則性があるからわかったんじゃないかとか、いろいろな言い訳を考えてたけど、それが二週間も続くとなると自分でも怖くなってくる。当て方に規則性など全然なかったし、別に下を向いていても当てられるのがわかったし。先生が僕の名前を呼ぶ一秒か二秒前に、体に弱い電流が走ったような感覚を受ける。口の中、舌の奥の方もなんとなくビリビリするような、なんともいえない不思議な感覚。「あ、また来た」って思った瞬間、僕の名前が呼ばれる。これって絶対ヘンだぞって真剣に思い始めた頃、急にその感覚はストップしてしまった。なまじ超能力に興味があったりしたもんだから、おもちゃを与えられてそれをすぐに取り上げられたような、えもいわれない不満が募ったのを憶えてる。それから何度か、本当に稀だけど、その感覚を体験することがあったけど(その時も必ず先生に当てられた)、中一の春に経験したような集中攻撃はなかった。今でもはっきり憶えているあのビリビリした感覚、一体なんだったんだろう。

 同じ頃、家でも不思議な体験をしていた。夜寝ている途中でパッと目が覚める。トイレに起きる時みたいに眠たい目をこすりながら起きるのとは違い、パチッと目が開いて全然眠気を感じない。自分でも「あれ?なんで目が覚めたんだろう」って不思議に思いながら一分くらい経つと、家がミシミシいってグラグラ揺れ始める。地震だった。揺れ始めてから起きるんじゃなくて、揺れる一分くらい前に起きたことが何度もあった。もちろん100%ってわけじゃなくて、揺れを感じて起きたことの方が多かったかもしれないけど。それでもあれは面白い。何度も経験したから、夜中に眠気を感じずに目が覚めたときに「お、またか?地震が来るのか?」と思ってドキドキして待っていると、やっぱり地震が来るって寸法。待ってる間に、揺れてから起きたんじゃないかとか、微細な揺れが本当はあるんじゃないかとかいろいろ分析するんだけど、辺りは静かな限りなんだよね。地震は怖いんだけど、コレが起こったときには「おー、やっぱり!」とか思ってワクワクしてたのを憶えてる。野生動物ってそういうのに敏感だって聞いたことがあるから、人間もやっぱり能力は潜在的に存在しているんだろうか。

 ある人のことを考えてたらその人から電話がかかってきたりとか、そういえばどうしてるかなって思ってた人とバッタリ街中であったりとか、そういう経験はよくある。一時期こういう経験がたくさんあって、もしかすると自分はテレパスなんじゃないかと思ったこともあったけど(テレパシーによって他人の波動をキャッチしたとか)、シグナルと実際のコンタクトとの間に時間的な開きがあることが多いので、中一のときの経験から考えて、テレパスというよりも予知能力なんじゃないかと思ってる。

 一番最近はニューメキシコに行く一週間くらい前。会社のカフェテリアにランチを買いに行ったときに、ふとカントリーウェスタンのバーで知り合ったMarkってヤツのことが頭に浮かんだ。最近彼はそのバーには全然来なくなったけど、4月にコーラスのオークションで再開したばかりだった。あまりにも突然彼のことを思い出したので、このカフェテリアでばったり会ったりしたら面白いな、そうなったらマジで予知能力者だなって自分で笑ってた。結局カフェテリアでは何も起こらなかった。問題はその夜。ルームメートのKoreyがスウェーデンに出張に行かなきゃいけないというので、空港まで送って行った。フライトまでは時間があったので空港のバーでちょっとだけ飲んで(ワシントン州ではアルコール血中濃度0.08%まではオーケー(笑))、さて僕は帰ろうとして空港を歩いているとき、Hey! と声をかけられて振り返ってみると、問題のMarkがそこに立っていた。彼の職業なんて知らなかったんだけど、空港で管制官をやってるらしい。休み時間にはボトルウォーターを持って、空港内をパワーウォークしてるんだって。それにしても驚いた。どうもこういう事が起きるときって、その人のことが「ポンと頭に浮かぶ」ってのが正しい表現。何かを考えていてそれから連想するんじゃなくて、何も脈絡がないときに突然頭に浮かぶ顔。そういうことがあると、それから24~48時間以内にその人に出くわしたり、電話がかかってきたりする。よくこういう事があるから本当に面白い。

 たぶんこういう事って誰でも経験してることだと思う。第六巻とか虫の知らせとか、そういったモノ。問題はそれが起こったときに、どれだけ敏感にそのシグナルをキャッチできるかってことなんじゃないかな。スプーン曲げみたいなテレキネシスに比べれば、僕が体験したことなんてとても地味なもんだけど、でも自分で「もしかするとやっぱりそういう能力があるのかもしれない」って思うと、ドキドキしてしまう。こういう遊び感覚も大切だよね(笑)。いつの頃からか、「直感」ってものを大切にするようにしてる。直感が来たときのためにそれを感じられるようにアンテナを最大限に広げておけば、もしかするとこの人生、もっともっと面白いことがキャッチできるかもしれない。やっぱ人生、楽しくなきゃ!
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by alexsea | 2002-06-06 00:00 | エッセイ | Trackback | Comments(0)
 夢…といっても将来の夢とかではなく、寝て見る夢の方。僕はこの夢に魅了されている。

 夢は僕にとって完全なる別世界。毎晩寝るときには、まるで映画かテレビを観るかにように「今日はどんな夢を見れるんだろう」とワクワクしてしまう。夢を見ない日というのは稀にしかない。毎日二本立て、三本立ての豪華ロードショーで、しかも色つき味つき匂いつきの、僕にとっては完全なパラレルワールド。

 いつの頃からか忘れたけど、時々夢の中で夢だと気づいて、その世界をいろいろと冒険できるようになっていた。以前は夢だと気づくと起きてしまうことが多かったんだけど、最近は夢を持続させられることが多いみたい。そういうときには「自分の頭が作り出した世界」を興味深く探検できる。ある家の中でこれは夢なんだということに気づいて、その中をいろいろと探検してみたりとか、例えば壁に数字が書いてあるような場所に来たときには、「この番号って自分の頭にとってどんな意味があるんだろう」って、改めて人間の頭脳の複雑さに夢の中で感心させられちゃうこともある。面白いのが、夢だと気づいても、完全に自分の思い通りにすることができないってこと。ある程度空を飛んだり、魔法や超能力を使ったりはできるんだけど、あんまり度を過ぎたことにはストッパーがかかるみたい。例えば、ある時にビルの中でゾンビの集団に追いかけられたときに夢だと気づいて、「いくら逃げてもキリがない。ええい、このビルの外にいることにしちゃえ!」と、ビルの外にテレポートできたり。でもある時には、夢だと気づいてるんだけど、迫ってくるモンスターに魔法を打ち込むことができなかったりする。どんなに手から火の玉が飛び出すところを想像しても、実際には何も出てこなかったり。こういう時は結構アセるけど、やっぱり心の奥底でできると信じきれてないのがダメなのかなって、夢の中で冷静に考えてたりする。でも本当に面白いよー、夢の中の世界の探索。まるでコンピュータゲームで初めての場所を探検してるような、すごくドキドキワクワクする感じ。時には夢だと気づいたことを忘れて、普通の夢に戻っちゃうんだけどね(笑)。

 面白いのが僕が夢の中で飛ぶとき。フワーッと自由に空を舞ってる感じって他の人にはよく聞くんだけど、僕の夢はちゃんと重力もあるから自由になんて舞えないし、飛ぶ方法もいつも全く同じ。立って、両手のひらを地面に向けて、そこから何か力を噴射するような感じで上に浮き上がる。何も見えないんだけど、浮いたときには、ちゃんと手のひらに作用・反作用の力を感じる。磁石が反発する力のような、モワッって感じを手のひら全体に受ける。磁石の反発の力をバーニアみたいに噴かしてる感じかな。その手の角度と噴かす力を変えることで、前に進んだり上昇したりできる。最初の頃に比べればかなり慣れたけど、まだスピードを出しすぎたりして止まれなくなって地面に激突することが多々ある。地面に落ちるときには必ず目が覚めちゃうし。だからいつもあまり高度を上げずに、地面から約2mくらいのところで移動してるんだけどね。足を使わなくていいから楽々移動できるってのが嬉しい。おかしいのが、夢の中での僕はデフォルトでこの能力を持っているらしく、夢だと気づかなくてもいつもこの方法で飛んでいること。夢の中の他の登場人物たちも、僕のこの能力をあるがままに認めているらしく、「先行ってるねー」って僕がフワッと飛び上がると、向こうも「そんじゃ向こうで会おうね」って言ってくれるみたいな。僕しか飛べないみたいで、他の人はいいなーって悔しがってたりするし。手のひらに受ける力や重力の感覚があまりにもリアルなので、もしかしたら本当に飛べるんじゃないかもって、誰もいないときに現実の世界で手のひらを下に向けて飛ぼうとすることが今でもある。飛べないんだけどね(笑)。でも夢の中で飛んでるあの感覚、リアルすぎてちょっと怖い気もする。

 夢の中で、「あ、ここ前に夢で見たことがある」って場所に来ることがたまにある。現実の世界では見たことのない場所なんだけど、夢の中ではそこに何回も来たことがある、みたいな。すごく不思議。起きても夢をはっきり憶えてるせいかな。以前クイズ番組で、普通の人は起きてから平均8分間夢を憶えてるって聞いたことがあるんだけど、僕は一日以上経った後に、そういえばこんな夢を最近見たなってふと思い出すことがあるし。

 フロイトとか夢占いとか、夢の内容から精神状態や未来を予測することができるっていうけど、僕の夢ってのはそういうのから全く離れた別世界みたい。でも一つだけ、今までのいろんな夢の経験から、あるシンボルが一つの事を示すらしいってことが分析できた。僕の夢に出てくる「車」は、「死」を意味するかもしれない。仲のよかった友達が婚約者と一緒に車に乗ってどこかに行ってしまう夢。そんな夢を見たずっとずっと後(8年後)、彼は自殺してしまった。声優仲間で、僕も大好きだったある女の人。その人が病気で亡くなったという話を聞いたちょっと後、彼女が車に乗って微笑みながらどこかに行ってしまう夢を見た(この時はまだ「車」と「死」とを関連付けて考えていなかった)。僕の上司が誰かと一緒に車でどこかに行くのを見た夢。そのずっと後、彼が病気で突然亡くなったという話を聞いた。たった3回の経験だけど、単なる偶然なんだろうか? 夢と現実の死とはかなり時間が離れてたりするんで、予知夢だとは思えないし、後からのこじつけなのかもしれない。でももしこういう関連付けをしてしまった今、家族や仲のいい友達、もしくは自分自身が車に乗って走り去ってしまう夢を見たとしたらどうしよう。今のところそういう夢は見たことがないけど、それを考えるととても怖い。

 まぁこういうコワイ考えはさておき、ストーリー性のある面白い夢は日記に記録してある。地図つき、下手な絵つきで(笑)。こういう時、自分が漫画書きだったらちゃんと夢を残しておけるのにって、今でもすごく悔しく思ったりする。夢を記録する装置ってのに憧れて、それを夢に見たことも二度ほどあるし。時間ができたら、夢のことを本格的に研究してみたいと思っている。夢日記をつけてると予知能力がつくって本当かなぁ(「予知能力」については近々Essay Diaryに書く予定)。

 なんか取り留めのないことを書いちゃったけど、要は僕は夢が大好きなんだと、そういうことです(笑)。
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by alexsea | 2002-06-04 00:00 | エッセイ | Trackback | Comments(0)
輝かしい日々 (The Bright Days) --- フォトン
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輝かしい日々 (The Bright Days)

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by alexsea | 2002-06-03 00:00 | エッセイ | Trackback | Comments(0)