From Seattle, WA, USA
by Alex
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シアトル在住のAlexです。
ソフトウェアデベロッパーをやっていましたが現在は休憩中。日本にいるときには役者をやってたりしました。歌ったり踊ったり、食べたり飲んだりが大好きです。

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僕はここにいるよ

5時くらいに人が起きてくる物音がしたのでちょっと目を覚ましたんだけど、その時に家の電話が鳴るのを聞いてしまって、一気に目が覚めた。明け方の電話なんて、悪いニュースしかない。やっぱり病院からで、母の呼吸状態が悪くなったので、すぐに来た方がいいということだった。母が逝ってしまったというニュースじゃなくてホッとしたけど、まずは僕と兄だけで行って様子を見ることにした。

僕はここにいるよ_d0113429_12282781.jpg
綺麗な朝焼けだけど、心は不安でいっぱい

20分ほどで病院に到着すると、母は意識がないようで、急に吸ってゆっくり吐く浅い呼吸を繰り返している。その瞬間に、もういよいよだということがわかった。僕はベッドの横に座って母の手を握り、「大丈夫だからね。ここにいるからね」と母にずっと声をかけていた。声をかけ始めて10分もしない頃、兄が病室の外に出て電話をかけている間、バイタル測定器の血中酸素濃度の値が下がっていくのが見えた。これはもうその時が来たと思って兄にも声をかけたかったんだけど、その間母を一人にさせておくわけにもいかず、ずっと母の手を握っていた。

どんどん下がっていく血中酸素濃度の黄色の数値を横目で見ながら、「僕はここにいるよ。大丈夫だからね。今まで本当にありがとう。おばあちゃんやFoxやエスによろしくね」とずっと声をかけていた。この場に祖母が迎えに来てくれていることを心の中で願いながら。途中で少し顔をしかめて手を離したことがあった。手を触られるのが嫌なのかなと思ったんだけど、3度目くらいに同じことがあった時に、口から少し胃液らしきものが出てきた。可哀想に、あれは吐き気だったのか。その後もずっと手を握りながら、母に言葉をかけていた。

短いイビキのようだった呼吸が徐々にソフトになって、少しずつ浅くなって、だんだん微かになって、最後にはついに止まった。

涙は少し出たけど、号泣せずに冷静に母の旅立ちを見守れている自分に少しビックリ。でも僕は、最後の瞬間まで母と一緒に居てあげられたのがとても嬉しかった。母も僕がそばに居ることがわかってたんじゃないかな。まるで僕たちが病室に来るのを待っていた感じで、僕らが到着したらすぐに逝ってしまったし。苦しかっただろうに、待っててくれてありがとうね。

母の病気がわかってから、僕と母は色々な話をしたし、感謝の気持ちを伝えあったし、一緒の時間もたくさん過ごした。やれるだけのことはやってあげたので、晴れやかな気持ちで母を送り出すことができた。悔いはなく、ただただ母が安らかに旅立ったことが嬉しいだけ。最後の瞬間まで手を握ってあげられたなんて、僕はなんて恵まれているんだろう。母に苦しみが少なく安らかに逝けますようにと、ずっと祈ってきた神様や祖母に、感謝の気持ちでいっぱいだった。

母が息を引き取ってから、ものの1分も経たないうちに兄が戻ってきた。「逝っちゃったよ」と言うと、すごく驚いていた。外の兄に声をかけてあげたかったけど、母を一人にしておくことはできなかったし。そうこうしているうちに義姉と姪も到着して、みんなで母に声をかけてあげた。

しばらくすると看護師と当直の医者が入ってきて、呼吸や瞳孔の反応をチェックしてくれた。正式な死亡時刻は午前6時7分。母の誕生日の1日前のことだった。看護師さんたちが機器を取り外して着替えをしてくれるというので、一旦外に出て待っていたところで甥が到着。今日は仕事で大事な役が入っているらしくすぐに行かなければならないので、彼は母に会えなかったのが残念。でもまだ機会があるだろう。

看護師さんたちが「どうぞ」というので病室に入ると、髪の毛は整えられているし、化粧もされているし、香水もつけられているし、さっきまで異常な呼吸をしていた母とは別人のよう。本当に綺麗にしてもらって、ありがたいことだ。この病院の看護師さん、一人だけ「?」って感じだったけど、大部分はとてもいい人ばかり。母と話すときにも単にマニュアル通りというわけではなく、本当に気遣ってるっていうのが伝わってきたし。そんな素晴らしい看護師さんの一人が、今朝の担当で本当に嬉しかった。

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ここに通うのも今日が最後

兄が早めに葬儀社に電話したので、霊安室に移動する暇もなく、そこを抜けてすぐに駐車場にある葬儀社の車へ。僕は母と一緒に乗ることができたんだけど、さっきの看護師さんたちは車が見えなくなるまで頭を下げて見送っていてくれた。

姪は仕事に行かなければならなかったんだけど、兄と義姉と僕は葬儀社まで行って、まずそこに安置された母にお線香をあげた。母の開いた口を閉じてくれたらしく、とても安らかな顔をしていてホッとした。感情のプールがいっぱいいっぱいで、ちょっとしたことで涙が出そうになってしまう。母にお線香をあげた後は、別の部屋でこれからどういう手順で物事が進んでいくかを聞いた。火葬の日程を決めるんだけど、明日の金曜日は友引なのでダメ。土曜日の朝一は僕が病院の予約があるのでダメで、結局土曜の午後ということになった。母の意向でお葬式はなし。家族だけで火葬をして、灰は僕がシアトルに持ち帰って母の思い出の場所に、骨は兄が選んだお寺で永代供養してもらうことになる。母は散骨だけでいいということだったんだけど、それが叶うんだったら後は何をしてもいいということだったので、兄は永代供養を選んだらしい。この葬儀社、これからお葬式があるらしく時間がないので、正式な契約は今日の14時頃また兄と僕がここに来るということになった。みんなまた母にお線香をあげてから家路に着いた。

ずっと悩んでたんだけど、火葬がそんなに早くできるのなら、僕も早くシアトルに帰って、一度はキャンセルするつもりだったフランス旅行を実現させたいなぁ。今年の2月くらいから計画していた旅行なので、とても愛着があるんだよね。シアトルに戻ってそのまま母のいない家にずっと居ると、精神的に結構ツライかもしれないし。僕にはこの日本での生活から休暇が必要だ。ということで帰ったら早速、今週末の飛行機に空きがあるかどうかをまず調べて、それがOKなようだったら、昨日キャンセルした全てのホテルを予約しなおすことにしよう。

家では、まず母の弟である叔父や、母と仲が良かった友達にも訃報を出した。同情されるのが嫌いで多くの人に病気のことを隠していたので、たくさんの人に驚かれていた。そりゃ驚くよなぁ。逝く方は楽かもしれないけど、残された人たちには突然の訃報は辛いかもしれない。

さて、僕のフランス旅行のこと。航空会社に電話をかけると、日曜日の便に空きがあるということでラッキー! 変更料金やら何やら合わせて¥42,400も払わなきゃいけなかったけど、それは仕方がないよな。次はホテル。結局予定していたホテル全てにまだ空きがあって、再予約することができた。ニースのホテルだけは高くなってたけど、その他は同じか逆に少し安くなっている場所もあってビックリ。ああ、でもこれでフランス旅行することができるぞ! 今週の3日間くらいはかなり精神的にキツイ状態だったので、このバケーションがすごく嬉しい。母が亡くなって数時間しか経っていないのに、楽しく旅行の計画をしている自分をちょっと恥ずかしく思ったけど、母がそばに居たらきっと「それでいいの。楽しみなさい」と言ってくれると思う。

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兄が買ってきてくれたサンドイッチとおにぎりでランチ

かなり疲れたので昼寝をしようと思ったんだけど、頭がまだフル回転してるようで眠れない。しばらく布団の上で目を閉じているだけだったけど、少しは心が落ち着いたと思う。母が逝ってしまったことが心に圧し掛かってきそうになったけど、どれほど母が安らかに逝けたか、母と最後の最後まで一緒に居られたことがどんなにラッキーなことだったかを考えると、胸のザワザワ感がなくなっていった。前に病室にみんなが訪れた時、母は「みんなの悪いもの、全部持って行ってあげるからね!」と言っていたので、本当に母が不思議な力で護ってくれているのかもしれない。

13時過ぎに家を出て、兄と一緒に葬儀社に戻る。最初母にお線香をあげたあと、兄が正式に契約を締結して、土曜日の火葬のスケジュールを貰った。葬儀社の人立ち合いの元に役所に出すための死亡届を書いたり、母の遺灰を入れてアメリカに持って帰るための骨壺のサイズを選んだりした。全部終わった頃に甥が仕事から抜けてくることができて、やっと母とご対面。3人でもう一度お線香をあげて、その場を後にした。

帰った後はお腹が空いたので、チューハイと柿ピータイム。今夜はみんなで『紅葉(くれは)』で食べることになった。あそこは母と僕が日本に着いた翌日に、みんなで行った場所。お酒も料理も美味しくて、母もその時はよく飲んだり食べたりしてたなぁ。家族みんなが揃ったのが母には嬉しいらしく、始終ニコニコしていたのを覚えてる。今回は6人席に5人で座ったんだけど、僕が勝手にその空き席に母を招待。母にもウーロンハイを頼んであげて、みんなで乾杯した。焼酎のお茶割りとかが好きだったから、喜んでくれたかな。好物だった茄子の料理も注文して母の分を取り分け、最終的に僕がいただくまで母の席に置いておいた。今までずっと食べられない日が続いたので、この美味しいお酒と料理を楽しんでくれていればいいんだけど。母の笑顔がすぐそこに見えるような気がした。

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母のグラスにみんなで乾杯!

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食べ物も母は楽しんでくれたかな

夕食から戻った後は部屋で『モニタリング』を見てたんだけど、テレビを消して部屋がシーンとするとやっぱり心がザワザワしてくる。新鮮な空気が吸いたくなったので、玄関を開けて外に出て、思いっきりストレッチ。それほど涼しい空気じゃないけど、新鮮な空気はやっぱり心が落ち着く感じ。そういえば夜に近所の風景をじっくりと見るのはこれが初めてかも。シーンと静まり返っていて、なんだかちょっと映画のセットのよう。でもこの一つひとつの家に、それぞれの生活があるんだなぁ。

今夜は寝つきが悪いかなと思ったんだけど、今朝早かったことも手伝って、布団に入ったら結構すぐに眠れたと思う。母がこの世にいない、最初の夜だ。

僕はここにいるよ_d0113429_12285154.jpg
今まで本当にありがとう。最高の母親だったよ


by alexsea | 2019-10-03 00:00 | 日記 | Comments(6)
Commented by 平井 at 2019-10-04 15:56 x
Facebook似も少し書いたけど、
自分の経験を書こうとしたけど
何か次にこう成ると宣告してるみたいで
書いては消して結局止めました。
今日は書かせて貰いますね。長文で済みません

もう20年以上前の事だけど、母は卵巣癌がきっかけで入退院を繰り返し、最後は自宅療養中に
意識障害を起こし再入院、両目とも白濁して
どこを見ているか判らない状態に成った。

もう意識は戻らないし聞こえないと医師は
本人の前で辛辣な病状を話した。
最後ぐらいと思い延びていた爪を切ってあげた。手が終わり足の方に手をやると縮めて居た足が
伸びてくる。
その時解った。意識は有るし聞こえてると。
切った時の枯れた木の枝に似た感触は今でも忘れない。翌日の明け方病院から電話、危険な状態に。
苦しむのも可哀想と延命措置は希望しなかった。
当時の住居から武蔵野日赤は高速で約30分。
まにあわなかった。いま思えば寂しい思いを
させたかも知れない。
前日まで1週刊近く病院からほど近かった妻の実家にお世話になったが長期化する居候に
休まら無いとの話が有り自宅に戻った日の翌日の事。義理の父と姉は母の遺体に泣いて謝った。
後1日何で泊めて上げなかったのかと。
でも仕方の無い事。運命だったと思う。

その後はこの前コメントで書いた通りの
流れに。難波君のブログを見ていて色々
考えさせられました。もうとうの昔の事
何ですけどね。
どう言う選択を取っても後悔はするし
今現在を思った通りに過ごす事が大事。
旅行めいいっぱい楽しんでください。
判ってると思うけどそれが一番の供養です。

母のお墓を建てる時墓地の営業の人が
言ってました。
生きている人が一番。遺族が幸せで
なければ立派な墓を建ててたも
亡くなられた方は報われませんから
Commented at 2019-10-04 22:56 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2019-10-05 01:56 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2019-10-05 09:23 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2019-10-05 12:31 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2019-10-05 17:41 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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